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サムライと騎士道

2010124

宇佐美 保

 私は、2週間ほど前、「武士道」に関連する講演会でのベンジャミン・フルホード(古歩道)氏の御講演、対談、そしてその際の御態度に大変感銘感動を受けた上、休憩時間や、講演後の御帰りの道すがら貴重なお話をお聞かせ頂きました。

 

 しかし、当日フルフォード氏の対談相手を務めもされた別の御講演者(以下に於いて、メモも録音もなく記憶だけで批判させて頂くので、御名前はM氏と記述させて頂きます)のご発言には失望いたしました。

 

 フルフォード氏の

“武士道に対して、ヨーロッパでは騎士道が存在し、騎士道は弱い存在である女性や子供を守る”

とのご発言に対して、なんとM氏は

“鹿児島や会津の男性に聞いた結果、女性は男性より強いとの見解でしたよ”

と反論されていました。

(おかしなことです、まるで内閣の支持率調査で政治が動かされてしまう日本の現状のようです)

 

 M氏が尋ねた相手が、「西郷隆盛」や、「勝海舟」らだと言うのなら分かりますが、サムライともいえない一般男性からの聞き取りで判断しているのですから、M氏の器の大きさ(小ささ)が分かってしまいます。

 

 「[新訳]南洲翁遺訓(編訳者:松浦光修、発行所:PHP研究所)」に記された、次のような逸話を目にしますと、西郷さんの御家庭では御自身が主導権を持ち、奥様が西郷さんより強かったとは思えません。

 

・・・夫婦の会話″で、有名なものが一つあります。坂本龍馬が、西郷家に泊まった時に聞いた話……といわれているものです。西郷さんと龍馬がはじめて会ったのは、元治元年(西郷三十人歳・龍馬三十歳)の時ですから、この話が事実なら、おそらく慶応のころの話でしょう。

 夜、西郷さんとイト(西郷さんの奥様)が、何か話をしています。龍馬が聞くともなしに聞いていると、イトが、こう言います。

「あのー、家の屋根が腐って、雨漏りがして困ってるんですけど……、お客さんが来た時など、恥ずかしくてしかたがないので、早く修理してくれませんか」

 すると西郷さんは、こう言ったそうです。

「今は、日本国中雨漏りがしている。わが家の修理なんか、してる場合じゃないよ」

 

 ちょっと……、できすぎた話だと思いますが、西郷さんなら、真面目な顔でもなく不真面目な顔でもなく、淡々と言いそうなことです

 

 西郷と会談して江戸城無血開城に導いた勝海舟に関しては、「それからの海舟(半藤一利著、筑摩書房発行)」には、西南戦争で敗れ自決された西郷への思いが次のように記述されております。

 

海舟の西郷への肩入れ、すなわち名誉挽回のための努力は、実に西郷死して二年後の、もう明治十二年にはじまっている。まず誰にも察知されないように、西郷の墓、いや、西郷を追悼するための記念碑を独力で建てたのである。碑そのものは人の背丈ほどの小ぶりの石碑で、表に西郷の漢詩、裏に海舟の文が漢文で彫られている。それは南葛飾郡大木村木下川にある浄光寺に建てられた。そこはかきつばたで有名な古剃であったという。

・・・

杉亨二の回想もある。

「ある日、西郷の碑文を書いたから見ろ、というので見ましたところ何でも中に、我を知る者はひとり西郷あるのみ、という句があったと記憶しております。いろいろ私が西郷のことを申しましたが、お前たちには豪傑の事はわからん、と申しました」・・・

 

 この勝海舟の御家庭では、奥様とお妾さんが同居されていたそうです。

(しかし、この場合では奥様達が弱かったかどうかは私には分かりません。御二人協力して勝海舟を尻に敷いて居られたのかもしれませんし・・・

それに、騎士道での「弱者」は、「暴力的な攻撃に対しての弱者」でもあり、「生活力生命力等での弱者」を意味しているのではない筈です)

 

 このような西郷、勝に比べてM氏は、自らの講演の後、次のフルフォード氏との対談前に次のように語りました。

 

 “フルフォードさんは、「ヤクザ・リセッション さらに失われる10 (光文社ペーパーバックス)」(そのほかの本の題名もあげられたのでしたが、はっきりと覚えて居りませんが、 「暴かれた[911疑惑]の真相 (扶桑社文庫)」、「これが闇の権力イルミナティの内部告発だ!」などだったかもしれません)等を世に出しているが、怖くないのか?

又、電車が突入してくる線路に赤ん坊が落ちた時、フルフォード氏はどうするか?

本当に勇気ある人(サムライ)なのかを彼に問い質してみたい。

しかし、私は怖くて出来ませんけど。”

 

 M氏は、日本でのディベート普及に努めて居られるようですが、対談相手には何を聴いても許されると認識されているような氏の感性に私は違和感を持ちました。

M氏は御自身の講演中に、

“サムライには「惻隠の情」が不可欠”

と発言されているのです。

だったら、聞かずもがなの質問はすべきではないと私は感じました。

 

 R.ワグナーの楽劇「ニューベルングの指輪」の英雄ジークフリートならいざ知らず、誰でも恐怖心を抱くのは当然ではありませんか?

訊くまでもない事です。

でも、フルフォード氏は、世に出したら身の危険が迫ってくるような内容の本を何冊も書かれています。

それだけで、フルフード氏の勇気を感じ取る事が出来るではありませんか!?

(何しろ、M氏だって(勿論、私も)ビビってしまう内容なのですから)

 

 しかし、対談中やはりM氏はフルフォード氏に訊ねました。

それに対して、フルフォード氏はあっけらかんと次のように答えました。

 

 

“最初は、危険だなんて思わなかったんです。

でも、その後危険を感じました。

しかし、怖くても書べき事は書くべきだと思うのです。・・・”

 

 そして、氏の著作「暴かれた[闇の支配者]の正体(扶桑社発行)」の“誰が石井紘基を殺したのか”には次の記述を目にします。

 

・・・石井議員は以前から自民党政権のタブ一に踏み込み、国会で鋭い質問をし、メディアで発言してきた。肝心の資料が行方不明 (おそらく、特定勢力の手に落ちたのだと思う) になっているのが残念だが、私の調査の結果では、次のどれかであることは確実だ。

 第一の可能性は、りそな銀行の経営問題。第二に警察のパチンコ裏金。第三に整理回収機構の不良債権処理問題。1億円の抵当物件を100万円で特定の人間に投げ売りしていた事実を石井は掴んでいた。

 実は、私はこれまで取材過程で、複数の信頼できる筋から石井議員殺害を命令した政治家と実行したヤクザの名前を聞いた。揺るぎない証拠も手に入れた。しかし、現段階でそれを公開することはできない。今の私にとってかけがえのない保険″になっているからだ

 この政治家とヤクザの名前、犯行の証拠はある場所に隠しており私の身に何かあったら一斉にメディアに流れるよう、手配してある。今、私は日本人の疑惑を暴くよりも、欧米の 闇の権力″ の実態を暴くほうに全精力を注いでいる。その過程でありとあらゆる敵から命を狙われている。しかし、私が殺されれば、石井議員殺害の実行犯がわかっ           てしまうので、彼らも迂閥には手が出せない。読者の方には申し訳ないが、もう少し待ってほしい。闇の権力″ の実態を暴いた暁には必ず、石井議員殺害事件についても発言しようと思う。・・・

 

 M氏は、“電車が突入してくる線路に赤ん坊が落ちた時・・・”の質問はフルフォード氏には致しませんでしたが、M氏は講演中に、白隠禅師(だったと存じますが)の次のような逸話を御紹介下さいました。

 

白隠禅師の説話に大勢が聞き入っている時、一人の若い女性が立ち上がり白隠禅師を指さし“彼はこの赤ん坊を私に産ませ、何もしてくれないのです”と言い、赤ん坊をその場に残し立ち去ってしまったそうです。

そして、他の人たちも女性の言い分を聴き、白隠禅師に落胆して、皆その場を去ってしまい、その後、白隠禅師は、その赤ん坊を抱え、毎日毎日、石を投げられたりしながらも、家々を訪ね、赤ん坊への乳を懇願して歩かれたそうです。

 

そして、M氏は、“機会があればもっと白隠禅師の話を紹介したい。”と語りました。

それ程迄に、白隠禅師にほれ込まれておられるなら、“電車が突入してくる線路に赤ん坊が落ちた時・・・”の質問を白隠禅師に問いかけたら、どのような御返事が返ってこられるかを、M氏は日ごろから考えて居られるべきと存じます。

 

 白隠禅師は、真っ先に線路に飛び込み赤ん坊を助けようとして、命を落とされるのか?

それとも、より多くの人々を救う為に、生き延びようとされるのか?

それでも、自分に代わる人は今後もいくらでも排出されるだろうから、ここで私は命を捨てようとか?

白隠禅師とて、色々考えられるのではないでしょうか?

 

 人それぞれに、その場その場で何を重要視するかで、考え方が異なってくるのではないでしょうか?

例えば先述しましたように、フルフォード氏は「石井紘基事件解明」よりも「闇の権力″ の実態を暴くこと」を優先されておられます。

 

 このような話を、講演会場を後にして、暗い道をフルフード氏と二人だけで歩きながら話しました。

(氏は、見ず知らずの私に警戒心を抱かれる事はありませんでした)

 

 しかし、これらの考えは頭の中での話になります。

しかし、とっさの場合は、心が決定を下すのでしょう。

例えば、10年ほど前、山手線新大久保駅で泥酔しプラットホームから線路に転落した男性を、救助しようとして線路に飛び降り、折から進入してきた電車に泥酔者と共にはねられ命を落とされた日本人カメラマン関根史郎さんと韓国人留学生イ・スヒョン(李秀賢)さんの咄嗟の行動は、頭で考えたのではなく、御二人の温かい心が判断されたのだと存じます。

 

それでも、M氏は、

“生と死の分かれ道では、死を選ぶのがサムライだ

とも語っていました。

このような方が“サムライ、サムライ”との声をあげて居られると、抜き身の刀を振り回して居られるようで、とても危険だと存じます。

(死を覚悟の特攻隊を賛美し、愛国心、愛国心と叫びながら、軍国主義にまい進するつもりなのでしょうか!?)

 

 M氏のような方々には、 岡本太郎氏の著作『自分の中に毒を持て「あなたは“常識人間”を捨てられるか」(発行:叶ツ春出版社)』を一読して頂きたいものです。

 

 その文中の一部を、私のホームページ岡本太郎氏に学ぼう(2

に次のように引用させて頂きました。

 

 俗に人生の十字路というが、それは正確ではない。人間は本当は、いつでも二つの道の分岐点に立たされているのだ。この道をとるべきか、あの方か。どちらかを選ばなければならない。迷う。

・・・・・・

 しかし、よく考えてみてほしい。あれかこれかという場合に、なぜ迷うのか。こうやったら食えないかもしれない、もう一方の道は誰でもが選ぶ、ちゃんと食えることが保証された安全な道だ。それなら迷うことはないはずだ。もし食うことだけを考えるなら。

 そうじゃないから迷うんだ。危険だ、という道は必ず、自分の行きたい道なのだ。

ほんとはそっちに進みたいんだ。

 だから、そっちに進むべきだ。ぼくはいつでも、あれかこれかという場合、これは自分にとってマイナスだな、危険だなと思う方を選ぶことにしている。誰だって人間は弱いし、自分が大事だから、逃げたがる。頭で考えて、いい方を選ぼうなんて思ってたら、何とかかんとか理屈をつけて安全な方に行ってしまうものなのだ。

 かまわないから、こっちに行ったら駄目だ、と思う方に賭ける。

 

 このような態度を貫かれる方が「サムライ」なのだと存じ、私も常々そうありたいと心がけ、歩いて来ました。

 

 そして、フルフォード氏の著作を読ませて頂いたり、お話を聞かせて頂き、フルフォード氏も岡本太郎氏同様「サムライ」(を超越された方)なのだと確信して居ります。

 

 そして、M氏は、「死」の方が、「生」より易しい場合が多々ある事に気づくべきです。「死は一面逃げ」でもあるのです。

 

 更には、当日、ビデオで発言されたお方は、

“日本語は、アエイオウの母音で構成されている為、話し声の周波数帯域が低い為、虫の音を心地よく感じる事が出来る”

云々と発言をされて居りました。

 

 どうも、(M氏同様に)日本人があたかも他国の方々より優れているような事を言いたいようでした。

 

 しかし、話し声等の相違の原因は、住環境の相違が大半を占めている筈です。

なにしろ、イタリア語の母音構成もアエイオウなのですから!

でも、双方の住居を比較すると、イタリアは石造りで、日本は木造です。

前者では声が良く響きますので、響きを持った声が重要視されます。

その響きは、いわゆる倍音であって、30004000サイクルの音です。

(この響きは、押し殺した声で会話する日本人の声には存在しません)

 

 更に、

日本人はどんなに身分が上の方でも、その住まいは庭に面して居り、日ごろから、庭の草花(更には)と接して生活しています。

 

(この有名な源氏物語絵巻(橋姫、竹河、宿木、鈴虫・・・)にも、縁側での風情が描かれております)

 

 ところが、石造りの宮殿で生活して居れば、庭の草花とは縁遠くなり、虫等は殊更で、宮殿内での虫の存在は、「忍び込んできた厄介者」と感じるでしょう。

さすれば、その「忍び込んできた厄介者」の音(鳴き声)などに、美を感じるのは困難になります。

 

しかし、「サムライ」と言うのは変な言葉で、そんな言葉は使う必要はないのだと私は思っております。

本来なら、日本人に限らず、どこの国の方であろうとも、尊敬すべき方、自分自身がそうありたいと憧れる方への「尊称」が使用されるべきと存じております。

他国の方々に比較して日本人が殊更に優秀であるかのごとく発言される方々を私は好きになれません。どこの国の方も、立派なお方は沢山おられます。

 

 日本人は、いつまでも「サムライ」にしがみ付いているべきではないのです。

西郷隆盛をモデルにしたような2003年のアメリカ・ニュージーランド・日本合作映画「ラスト サムライ」が象徴しますように、「サムライ」は西郷隆盛で終わったのです。

 

 本当に「サムライ」は西郷隆盛で終わっていて欲しいのです。

何しろ、西郷さんは「平和憲法」以前のお方です。

 

しかし、西郷さんが偉大であった事は先に引用させて頂いた「南洲翁遺訓」の次の記述を見ると分かります。

 

・・・

 私は昔、ある人と議論したことがあるんだよ。その時、私は、こう言ったのさ。

『西洋は野蛮じゃ!』

 するとその人は、こう言った。

『いや、西洋は文明です』

 そこで私は、

『いいや、いいや……、野蛮じゃ!』

 と、たたみかけた。

 すると、その人はあきれて、

『どうして西洋のことを、それほどまでに悪くおっしゃるのですか?』

 と、不満そうに言い返してきた。

 そこで私は、こう言ってやったのさ。

ほんとうに文明の国々なら、遅れた国には、やさしい心で、親切に説得し、その国の人々に納得してもらった上で、その国を発展させる方向に導いてやるんじゃないかな?

 けれど西洋は、そうではない。時代に遅れて、ものを知らない国であればあるほど、むごくて残忍なことをしてきたし、結局のところ、そうして自分たちの私利私欲を満たしてきたじゃないか。これを野蛮≠ニ言わないで、何を野蛮″と言うんだい?』

 私がそう言ったら、その人は口をつぐんで、もう何も言わなくなつたよ」

 そう言って、西郷先生はお笑いになりました。

 

 

この西郷さんは、次の記述のように、戦争を否定しているわけではありません。

 

 ある時、国の政治について西郷先生とお話ししていると、先生は、憤りつつ・・・嘆きつつ、こうおっしゃつた。

「国としての名誉が辱められるようなことがあったら、勇気をもって正しい道を進み、最悪の場合は国ごと斃れてもよい〃、というほどの覚悟をもって正義をつらぬくのが、政府の本来の仕事ではないか。

ところが、平和な時に財政問題を議論するのを聞いていると、どれほどの英雄・豪傑なんだろう〃と見えるような政治家が、いったん有事となり、人の血が流れるかもしれない……というような事態に底面すると、みんなで頭を集めて、コソコソと議論し、ほんの目先の安全の確保しか考えていないような、その場としのぎの対応しかできない。

戦≠ニいう一字に恐れおののき、政府本来の仕事をせず、国の名誉を貶められても何もできないようなら、それは、経済の監督所のようなものにすぎないじゃないか。そんなものは、とても政府″とは呼べないね」

 

更には、

 

 ある時、西郷先生が、こうおっしゃった。

「策略を、平和な時の日常生活で使ったりしてはいけないよ。策略でやったことは、あとからその経緯をふりかえると、まちがいなくあと味の悪いものになるし、それに必ず、あとで弁解できないような失敗がつきまとうものさ。

 ただし、戦争という非常事態の時には策略は必要だよ。これは、戦略とか戦術などと呼ばれるものだね。

 不思議なもので、いざ戦争……という大きなことになると、平和な時の日常生活で、コソコソと小さな策略を使っているような人からは、けっしてよい戦略や戦術が出てこない。

 諸葛孔明という人のことは、知っているよね。あの人は、平和な時の日常生活では、けっして策略を用いるような人ではなく、心が鏡のように澄んでいた人だったけれど、それだからこそ戦争の時は、ああいう奇抜な戦略や戦術が出てきたんだよ。

私が、明治六年に東京から引き上げた時のことだけれども、その時、私は弟(西郷従道)にむかって、こう言ったものさ。

『こんなことになって東京を去ることになつてしまったけれど、これまで、少しも策略じみたことはしてこなかったから、私が東京を去っても、何一つ汚い″と非難されるようなことは、出てこないはずだよ。まあ……それだけは、見とどけておいてくれよ』」

 

 ですから、私は、西郷さんより勝海舟が好きです。

その根拠として、先にも引用させて頂いた「それからの海舟(半藤一利著、筑摩書房発行)」の次の記述です。

 

・・・山岡鉄舟述の 『武士道』 のなかに出てくる海舟談である。海舟はこういうのである。

「一兵をも動かさずして江戸城を官軍に引渡したことは、やはり武士道から割り出したのだ」

 

 更には、先の拙文≪武士道と自衛隊と勝海舟≫の一部を再掲させて頂きます。

 

・・・「武士道」の本質は?

そこで、新渡戸稲造の著作『武士道:三笠書房発行』を覗いてみましょう。

・・・

 

 暗殺、自殺、あるいはその他の血なまぐさい出来事がごく普通であった、私たちの歴史上のきわめて不穏な時代をのり越えてきた勝海舟の言葉に耳を傾けてみよう。彼は旧幕時代のある時期、ほとんどのことを彼一人で決定しうる権限を委ねられていた。そのために再三、暗殺の対象に選ばれていた。しかし彼はけっして自分の剣を血塗らせることはなかった。

 勝舟は後に独特の江戸庶民的語り口で懐旧談を語ったが、その中で次のように語っている。

私は人を殺すのが大嫌ひで、一人でも殺したものはないよ。みんな逃して、殺すべきものでも、マアマアと言って放って置いた。それは河上彦斎が教えてくれた。『あなたは、そう人を殺しなさらぬが、それはいけません。南瓜でも茄子でも、あなたは取ってお上んなさるだらう。あいつらはそんなものです』と言った。それはヒドイ奴だったよ。しかし河上は殺されたよ。私が殺されなかったのは、無辜を殺さなかった故かも知れんよ。刀でも、ひどく丈夫に結えて、決して抜けないようにしてあった人に斬られても、こちらは斬らぬといふ覚悟だった。ナニ蚤や虱だと思へばいいのさ。肩につかまって、チクリチクリと刺しても、ただ痒いだけだ、生命に関りはしないよ」(『海舟座談』)

 これが、艱難と誇りの燃えさかる炉の中で武士道の教育を受けた人の言葉であった。よく知られている格言に「負けるが勝ち」というものがある。この格言は、真の勝利は暴徒にむやみに抵抗することではないことを意味している。また「血を見ない勝利こそ最善の勝利」とか、これに類する格言がある。これらの格言は、武人の究極の理想は平和であることを示している。

この崇高な理想が僧侶や道徳家の説教だけに任され、他方、サムライは武芸の稽古や、武芸の賞揚に明け暮れたのはまことに残念きわまりない。このようなことの結果、武士たちは女性の理想像を勇婦(アマゾネス)であれ、とするに至った。ここで女性の教育、地位という主題に数節をさくことは無駄ではなかろう。

 

 

 

(追記)

 

 フルフォード氏は御講演中に、次のようにも発言されました。

 

“明治維新を成し遂げた武士たちは、フリーメーソンの援助を受けていた。

又、坂本竜馬は長崎の豪商グラバーの援助があったので存分に力を発揮出来た。

更に、孝明天皇は暗殺され、長州の大室寅之助なる若者が明治天皇に居座った。”

 

これらの件は、次の拙文にて考察したいと存じます。

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